コラム コラム一覧を見るkeyboard_arrow_right

「JIN」のファンと銚子のインバウンドツアー

「仁」の漫画を見せながら、ここに行きたいというオタクのアメリカ人のリクエストに答えました。江戸時代には西洋の医学がオランダから部分的にしか入ってこなかったが、ペニシリンの発見者フレミング並の菌培養で人の命を救った話をしています。本当なのでしょうか?

銚子の発酵食品現場訪問の動機:
銚子は先の戦争で、重要拠点とみなされ米軍に爆撃され千葉市に続き壊滅状態になりました。その銚子には、江戸時代に醤油文化を開花させた歴史がありました。

そこで、発酵調味料として世界に販売される日本の「醤油」について調べるついでに「仁」のことも確認しに行きました。

醤油蔵は銚子市内でも、全盛期には30軒ありましたが、今はほとんど廃業してしまいました。市内において工業化で成功したのは「ヤマサ醤油」「ヒゲタ醤油」の二大ビッグカンパニーですが、醤油の前身である「醤」に特化して作り続けインターネットを中心に販売している「山十」を訪問し情報交換することにしました。

銚子の地理的特徴
銚子の気候は北が利根川、南は海に囲まれているため、黒潮が運ぶ海洋性の気候の特徴が見られます。夏涼しく、冬暖かい、-一年を通し湿度が高く、風が強いというのが特筆すべきことです。また、暖流(黒潮)と寒流(親潮)が合流する場所に近いため、霧が多く発生するという特色もあります。

江戸時代までは、湿地であったものを、灌漑技術で江戸川と合流させ利根川まで延ばす大工事をすると、運河として物資を江戸に運ぶことができるようになりました。

地形の影響で、紀州(現・和歌山県)から鰯を追って漁師が千葉県に移り住んできたという事実があります。「勝浦」「白浜」という同じ名前があるのも紀州の人達が故郷を思って名付けました。追って醤油職人が渡って来たことが、銚子が醤油の町になる要因がありました。

面白かったのは、方言らしきものを感じないということです。理由は、関西のルーツの人と、東北や東関東から来た人などの影響で銚子弁というものがないようです。

ヒゲタ工場見学
日本酒や味噌蔵の見学などを通して、醤油は発酵食品というよりは、発酵調味料でしかないと、あまり期待をしていませんでした。

しかし、認識を覆したのは醤油が、味噌のように、家で「手前味噌」を作ることができない事実です。理由は、味噌は蒸した大豆を潰したところに発酵した米麹を足して作ります。つまり米麹だけ発酵したものがあれば比較的簡単に完成します。

しかし、醤油は、材料である大豆・小麦ともに麹をつけて三日間醸さなければなりません。むき出しのでんぷんである白米と違い、タンパク質の塊である大豆と様々な栄養素ももつ小麦は、うまく発酵させることが困難なものです。

2005年ヒゲタ醤油は、麹菌のコンソーシアム(共同開発部)に参加し、日本の国菌であるアスペルギルス・オリゼー菌のゲノム解析を完了しました。麹菌ゲノム解析コンソーシアムは、財団法人醸造協会を代表とし、産総研、酒類総合研究所、食品総合研究所、東京大学、東京農工大学、東北大学、名古屋大学、アクシオヘリックス、天野エンザイム、インテックW&G、大関、キッコーマン、協和発酵工業、月桂冠、そしてヒゲタ醤油からなるものです。その微生物制御の技術により醤油会社は醸造工学に長けており、今では薬品も出しているのです。
因みにヒゲタ醤油は、そもそもはヤマサ醤油の分家になります。

ヒゲタの醤油蔵はNHKの朝のテレビ小説「澪つくし」の舞台になりました。同社は、同名の製品も出しています。

どこの醤油工場も写真撮影を禁止しています。人力の機微を容易に撮影させたくないのが、うかがえます。

大豆は、昔は常陸(現・茨城県)で取れましたが、小麦は、下総・武蔵(現・千葉県南部・埼玉・東京)から入手しました。前者は蒸して潰し、後者は炒って砕き、両方を混ぜ合わせます。

 

これに麹菌(ヒゲタ菌)をつけて、三日間発酵させます。

麹菌は、食塩が苦手なので、ここまでは塩分なしでアミノ酸や糖分にし、この後食塩水を入れます。昔、塩は行徳から入手したそうです。

麹菌はしょうゆのうまみ成分を作るのに役立っています。昔からしょうゆの醸造では、「一麹、二櫂、三火入れ」と言われてきました。日本酒造りの基本は「一麹、二酛、三造り」と言うのに似ています。一番大切なのは、麹を醸すことだということは一緒です。

江戸時代の様子を描いた絵では、イオン化傾向の高い鉄を使っていることがわかり酸化が心配されますが、発酵の段階ではなく下処理なので問題ないそうです。

 

江戸時代の絵には、もろみの中につけたして麹を入れている絵があります。攪拌して空気を入れるということです。現在の空気をホースで入れるというのは画期的な方法ということです。

こうしてできたものが「もろみ」です。ヒゲタ醤油の場合、コンクリートタンクを使うのですが、モルキュラーシーブ(分子ふるい)として小さな孔は開いていると思われます。パネル頁右上のモロミタンクは、ホーローです。かつては、櫂で攪拌していたのを替わりにホースで空気を送り発酵を促します。乳酸菌と酵母発酵で、約6カ月熟成させます。

最初は、食塩によって麹由来の微生物が死滅し、乳酸菌が増殖します。やがて、自身の産生した乳酸で乳酸菌が死滅した後、酒発酵酵母がアルコール発酵をし、自身の産生したアルコールで酵母が死滅します。麹菌は最初の段階で死滅しますが、産生した酵素は食塩水の中でもタンパク質をアミノ酸になるまで分解し、澱粉を糖になるまで分解します。

絞りの工程は、かつては木材を使っていました。絞りカスは、家畜の飼料にしていましたが、現在は燃料として燃やしているということでした。
こうしてできた生醤油(なましょうゆ)をろ過機で濾し火入れをして瓶に充てんしていきます。火入れをするのは、発酵を止めて製品として味や香りを安定させるためです。

ヒゲタ醤油のパンフレットには、本醸造方式であることが書かれています。つまり、アミノ酸液を加えない醤油です。日本農林規格では、旨み成分のアミノ酸量で特級、上級、標準と表示しています。その成分の多さで、特級より更に2割多いものは「超特選」の表示を許されています。

天・地・人のフレスコ画
2001年にヒゲタ醤油は創業385年を迎えました。この記念事業の一環として、フレスコ画の制作をしました。イタリア在住の坂田秀夫さん、由美子さんご夫妻に依頼し、制作が開始されました。ヒゲタ工場内に幅10m、高さ2.8mの絵が飾られました。

何故、フレスコ画なのか?と、思いましたが制作から100年するとガラスのような艶が出るとか、画材の顔料などの説明から「熟成」という言葉を何度も聞きました。つまり、フレスコ画も熟成技術を使っている絵なのです。

工場内にあるこの絵は残念ながら、まだ艶のある状態ではありませんでした。100年後は、輝いていることでしょう。

ヤマサ醤油
ヒゲタ醤油も凄かったのですが、世界という市場により定着させているのはヤマサ醤油でした。
ヤマサ醤油工場見学の場所は、銚子電鉄で一つ目の仲の町で降りたところにありますヤマサ醤油の建物は、銚子の街のいたるところにあるのですが、ここ以外は工場見学できません。街中に大豆を蒸して、小麦を炒っている香りが広がっています。

漫画「仁(ジン)」はヤマサ醤油が種痘所を再建しペニシリンを発見したことになっていましたが、神田お玉が池にあった最初の種痘所が消失した時に、300両を出資し種痘所再建を支援したことは事実です。ただし、ペニシリンはイギリスのフレミングの発見です。

↑ヤマサ工場見学で出会える醤油アイスクリームです。

初代の濱口 儀兵衛(紀州から来て醤油蔵を作った人)から数えて7代目別名梧陵は上述の医学を支えたり、社会福祉事業や政治活動に心血を注いだ江戸時代の偉人です。自分の刈り取ったばかりの稲に火をつけて住民を高台に避難させて津波の危険から守った逸話が有名な人です。この逸話に感動したラフカディオ・ハーンがかいた短編が後に「稲村の火」として教科書に載るようになりました。

ロゴについて言えば、ヤマサマークの右肩にある「上」の字の意味は、江戸時代の末期に、江戸幕府から特に品質の優れたしょうゆと認められ「最上醤油」の称号を得た時の証しです。今でも品質の良い製品づくりを忘れないために、上の字をつけ続けています。これは、ヒゲタ醤油と同じでした。(醤屋になった山十さんには、それはありません。)

10代目も偉人で帝国大学を出た後、イギリスに留学し醸造工学を学び、その後ヤマサ醤油の初代株式会社社長に就任しました。現在でいう日本生物工学会などの評議員を経て、貴族院議員を務めました。社長自らが科学者であり政治家であったという点が「世界のヤマサ」になった要因のようです。ヤマサ醤油も薬品も作っているだけでなく、海外市場のために、アメリカに2000年工場を設立しています。

材料の大豆と小麦が主にアメリカから輸入しており、食塩がメキシコ産です。

7代目、濱口梧陵は、近代医学への支援を厚く行っており、有名な医学者との親交もあった人物で、仁のモデルになったと書いてありました。ただし、ペニシリンはフレミングの発見でもっと後です。

物流のために引きこみ線まで用意したヤマサ醤油では、ドイツから輸入したオットーという日本で最古のディーゼル機関車を使用しました。

残念なことに、工場見学できたところは、二か所だけでした。そのうちひとつは、材料のあるサイロをガイドが指さし、「輸入された大豆と小麦を貯蔵しています」という説明を受けただけでした。

麹室は見せていただけませんでしたが、もろみのタンクは、ガラス越しに見学ができます。もろみタンクは鉄にホーローですが、そのタンクを埋めてある床が木製でした。ホーローには、菌を醸す力はないかと思いますが、やはりホースで空気を送り、攪拌していました。

ヤマサ醤油は、江戸時代には、出荷しやすいように波止場の近くに蔵をおき、明治時代には駅のそばに工場を開き、電車の路線まで引きこみ、欧州からディーゼル機関車を用意し現在ではインターチェンジや空港に近い成田に物流センターを用意しました。

ロジスティックに非常に意識が高かったことがうかがえます。

工場見学に来た人のお休み処には「しょうゆアイスクリーム」というものがあります。想像した通りの味で「しょっぱい」醤油と「あまい」アイスクリームが同時に味わえます。濃い味の二つが口の中でぶつかりますが、工場見学ツアーに参加した方から「美味しい」というお声もありました。

山十の「ひ志お」
銚子の町は、観光にも力を入れており区画整理のされた江戸風の街並みです。全て戦後できたものであり、博物館にも街並みの資料がありません。空襲で燃えてしまったのです。

前身が醤油屋だったという山十さんは、創業は古く寛永7年です。古くて新しい切り口「ひ志お」を販売しています。

↑店頭販売での「ひ志お」※に、力を入れているそうです。

※ひしおは、通常漢字を当てるとしたら醤ですが、志の字を山十さんは使っています。

醤は醤油の前身ですが、紀元はとても古く大宝律令の文献に出てきます。万葉集でも長意吉麻呂による「醤酢」をよんだ歌があります。この当時の醤は、肉から造った「肉醤」魚から造った「魚醤」野菜を用いた「草醤」です。農耕民族だった日本人は、大豆を使った「穀醤」に変わっていきます。東大寺の大仏の建立時には、職人への賃金は、醤が手渡されたとなっていますが、ペースト状であった様子がうかがえることから、山十さんで販売しているものに近いと言われています。

平安時代まで、調味料はひしお、酢、塩、味噌が使われており、宮中にいる人達が日常に使っていました。醤は、中国の「ジャン」であろうと思いますが、それは肉、魚、野菜などを使ったものでした。

日本では、その中国由来のものは廃れていきました。ところが、室町時代に中国に渡った紀州の禅僧が流れを変えました。覚心和尚のつくった舐め味噌の径山寺味噌(寺の名前から現在の金山字味噌になりました)から沁み出した液体調味料ができました。

紀州で、醤油蔵として発展をしていきます。江戸時代になり政治経済の中心が江戸に移ると、鰯を追って紀州の漁師が千葉県に渡り前戦基地を銚子に造ります。驚くのは、鰯を食べる為ではなく、綿花の肥料にするために漁をしていたのです。鰯は関西では肥料として高く取引されていました。時代が変わると、紀州から銚子に来て醤油蔵を造る目的で移ってくる人達がおり、工業的な視点を持っていました。万人に好かれる穀物の醤油を追求し、状態が一定のものを造る努力を惜しみませんでした。こうして貴族の食べ物だった醤は進化して液体の調味料、醤油として江戸の庶民の味となっていきます。

東北など、魚醤が発展した地域では、食品である魚が、臭わず腐敗することなく塩で長く衛生的に漬けることで魚醤となっていきました。背景には、魚が余っていたことがあります。栄養学のなかった時代、漁師町には、魚を食べすぎることによる痛風などの病気もあったと言われています。

昔は、高瀬舟という帆掛け舟で、利根川を銚子から江戸に北上したのですが、醤油樽を隙間なくびっしりと敷き詰めています。単価の安い醤油を一度にどれだけ運べるかがそのまま売上げに関係して来るためです。逆流にのっていくというのは、困難かと思われますが、実は利根川は江戸幕府により灌漑で作られた人工的な運河です。江戸幕府が埼玉から江戸に流れていた利根川を上流で銚子まで流れるもうひとつの川をつくることで、現在のジャンクションのような物流のハブ港を銚子に設定しました。これにより、江戸にたくさんの醤油を送り返りは資材を積んで帰ってきます。今でも、オランダの運河を思わせる穏やかな流れを見せています。

元の醤は平安時代に貴族の食卓に並んでいたものですがやがて、その中にあった穀物由来の醤が、醤油屋では「まかない」調味料としてずっと生産ラインとは別に職人が口にできるようになりました。醤油の製造工程では、約数十~百人が必要です。すべての醤油蔵では、寝床・食堂・風呂が完備されていました。その食堂にあったのは、白米と少しの野菜、そして醤です。

「ひ志お」の造り方は、大豆を炒って(醤油は小麦を炒りますが、大豆の食感を大切にするためだろう、と思われます)割ります。その後、植物繊維である皮を飛ばして取り除き中の粒子だけを取り出します。これで大豆の全体量が減りますが、美味しくなるひと手間です。

もう一つの材料は、醤油の定番である小麦ではなく大麦を水につけ、発芽の前に取りだしたものです。発芽によるアミラーゼ産生を必要としていないのは、後の工程で麹を使いアミラーゼが醸されるためです。前述の炒った大豆とこの大麦を合わせて大きな樽にいれて蒸してから使います。タネ菌である麹菌をつけ、三日高温多湿な麹室で麹菌を培養します。大麦の方が澱粉は多いので麹も繁殖しやすいと思われます。

できあがりは、大豆は形が残りますが、大麦は溶けてしています。

ポリバケツにこの「ひ志お」もろみをいれ石をのせて仕込みます。本来は木桶でしたが、15カ月熟成させて製品化します。木樽を作れる職人がいなくなってしまったので仕方なくポリバケツを使っているそうです。醤油と違い一度も攪拌しないということです。

「ひ志お」の材料

↑左から大麦、炒って皮を飛ばし割った大豆、炒ったことで皮が外れた大豆、入荷された状態の大豆となります。

野菜につけてバーニャカウダ風にしたり、パスタにからめたり、と和食だけでなくフレンチ・イタリアン・中華のシェフが特に興味をもっているということでした。

この「ひ志お」は、海外でも受けそうですが、おひとりで行っているため大量生産はとてもできないというお話でした。

すべての道具は、江戸時代から昭和初期まで使われてきた同じ型の道具ですが、空襲によって江戸時代の本物は一度消失してしまったそうです。

まとめ
銚子の醤油会社は、期待していた以上に生物工学が発展しおり驚きました。千葉県で千葉市についで二番目に銚子市になった都会です。山里、海、川もある風光明媚な場所です。人工的に河川をひいたお話を聞いてから利根川を見るとオランダの運河のように感じました。

思えば、ユネスコの無形文化財として登録された和食、その中でも世界で一番人気を誇る江戸前寿司は川が生んだのだと確信しました。寿司を美味しくしている寿司のムラサキ部分=醤油です。

先日行った仙台も川の力で米を関東に送ったことで仙台藩の力が伸びたことを思い出します。需要は江戸にあったのです。

また、愛知県のミツカンは米酢を運河で江戸に出し江戸前寿司を支えました。東北のお米と愛知の米酢、この二つでできたのが、寿司飯です。江戸は、独身男性が多く外食文化が盛んでした。食材が川を使って江戸に向かって集まったということを再度確認しました。

世界市場を視野に動いている二つのビッグカンパニーとニッチ市場を狙う山十さんと訪問させていただきました。アメリカ人のオタクくんも満足。銚子の元気をいただいた感じがします。